学生時代、「ポカホンタス女」と呼ばれるタイプの人に憧れていました
- 外国人(特に欧米出身者や白人)
- 外国語能力
- 海外経験
ウン年前、私は某大学の文系学部に入学した。
その学部は、いわゆる「国際系学部」というやつで、同級生には帰国子女や親が外国人等海外にルーツを持つ者、留学経験者などが多かった。
こうした人たち(なぜか女子が多い学部だった)の一部は、ネットで取り沙汰されているような特徴を持っていた。
語学力や海外経験の他に、外国人のパートナー。時々は日本と外国、日本人男性とパートナーの出身国の男性を比較した話をする。
海外好きを公言し、外国人の集まる場所に繰り出し、ターゲット層に好まれそうな黒髪ストレートの容姿。
学部柄、英語至上主義で、真面目ちゃんは求められず、海外バンザイ、グローバル人材バンザイ、海外経験豊富な学生が評価される環境で、私は彼女たちに憧れた。
英語が流暢で、堂々としていて、友人やパートナーもなんだかグローバルだからだ。
(一方の私といえば、プレゼンでは英語が下手と一蹴され、英語で行われるクラスやそのこでのディスカッションに置いていかれる有様だった。人間関係も特にグローバル感はなかった)
きらきらした彼女たちに憧れと劣等感を抱きながら、何とか恥をかかないように奮闘する学生生活。
変化があったのは入学して1年が経ったころだった。
入学当初は先生の話にもついて行けなかった私だが、さすがに1年もたてば授業には最低限ついていけるようになった。
同時に、海外経験などを既に積んでいる学生たちと純粋に「英語力」で肩を並べようとする限り、私はこの大学では成果を残せないことに気付く余裕もできた。
クラスメイトに劣る英語力を何でカバーするか?を考えていたとき、英語クラスとは全く関係のない所でお世話になっていた教授から
「発言というものは形式と内容だ」
という話を聞いた。
これをきっかけに憧れは消えた。
なぜなら、私が憧れていた彼女たちの、堂々とした話の中には内容が欠けていたからだ。
彼女たちが英語で堂々と話すプレゼンは、立派に見える。しかしよくよく内容を聞いてみると小学生の作文レベルかウィキペディアの要約。
「内容」を気にするようになってから、劣等感もなくなった。
懸命に文法や語彙を調べつつ書いたレポートは、赤字で大量の修正が入れられて戻ってくる。
プレゼンテーションでは、発音の注意をされたりもする。日本語英語からはなかなか抜け出せない。
だけれども、しっかり先行研究を探し、目を通し、自分の意見を述べ、論理的な構成のプレゼン、発表は、少なくとも教員からは評価された。
失礼な言いかたながら、内容を伴わない語学力や態度に大した意味がないことを実感し、劣等感も憧れも消えた。
(実感したことが大事であったと思う。知る、レベルなら入学前に到達していたはずだ)
そして、「ポカホンタス女」なるワードを目にするまで、こうした学生時代の思い出はすっかり忘れていた。
今、私が憧れていた彼女たちが何をしているのかは知らない。
学生時代のままだったら、何の感情も抱かない。
でも、あの頃よりも大人になって、単純な海外/日本の二項対立の思考から卒業し、語学力のみならずそれを用いて何を伝えるかにまで気を回すようになっていたら、きっと私はまた憧れてしまう。
論理的に、濃い内容を、高い語学能力で発信し、自国も他国も尊重できる人がいたら強すぎる。
海外事情にも明るく、何より自国から飛び出す貴重な経験までしているときた。
私にはかなわない。