避難したい子、孫としたくない祖父母
台風19号、やばかったです。
水害には強いとされるエリアに住んでいるけど、それでも避難所への避難を検討するレベル。
暴風域に入ってすらいない段階で、レベル3のエリアメール。
避難所が遠かったことからこの時点で避難所に向かう必要性はないと判断しましたが、両親と私は避難所行きの準備をはじめていました。
レベル4で、自宅より高台にある近所の学校が避難所になったりしたら避難所行きも考えようねと祖父母(実家で同居)に伝えたところ、大反対。
「ここは水害は大丈夫。だから土地の値段も高かったんだ」
「避難所なんか絶対に行かない」
今までの台風では確かに無事だった。けど今回は大丈夫ではないかもしれない。
「ウチは絶対に大丈夫だ」
祖母の耳元で大声で言います。
何も行くと決まった話ではないんだよ。これから様子を見ていった方がよさそうなら行くんだ。そのための準備はしようよ。
「ウチがだめなら、それでいい。ここで死ぬから」
母も説得しようとします。
避難しないって言ったって、避難せずに残れば結局避難すらできない状況になってから救助隊がきたりして大事になるだけだよ。
しかし、無言の抵抗。何がなんでも家を離れたくない。避難所には行きたくない。
私と母は困ってしまいました。
正直なところ、避難所に移った方が安全ならば避難したい。私たちはまだ命が惜しい。
しかし、自分たちだけでは避難所に行けない高齢者を置いていくことは後ろめたい。
死に直結する事態でもしそれをやってしまったら見殺しにしたことになる。
祖父母も思っていたはずです。
避難所に行きたくないと言い続ければ、行かずに済む。娘夫婦や孫は、高齢の私たちを見捨てては行けないはずだ、と。
そう分かったうえで強情を張っていることが無性に頭にくる。
若い家族の命よりも、家が大事か。
子や孫を、後ろめたさで縛らないでくれ。
そのとき、口を滑らせて言っちゃいました。
『分かった。もう避難しようとは言わない。私は自分の命の方が大事だから、いざとなったら置いて逃げる。後は知らない』
言った瞬間「しまった!」と思い、耳の遠い祖父母だから聞こえてないといいななんて考えたけれど、そんなに甘くなかった。
祖母はくるっと背を向けて「いいわよ、どうせもう死んでもおかしくない歳なんだから」。
これで我が家の避難会議?は終わってしまいました。
母は「面と向かって孫に見捨てられたら傷つくに決まってる」と怒りました。当然です。
普段は祖父母との関係は良好。祖母とは一緒に風呂にも入りますし、車いすを押して散歩もします。仲良しです。なので、傷つけてしまったことは素直に反省。もう少し言い方があったはず。
ただ、口に出してはいけなかっただけで、いざとなったときに避難したがらない高齢者を置いて他の家族が逃げるという考えそのものを変えるつもりはありません。
すんなり避難に同意してくれて、一緒に行けたらそれが一番なんですけどね。
台風19号、今回は幸い、避難せずとも被害を受けずに済みました。
祖父は「ほーら、ここは絶対大丈夫なんだ」と誇らしげです。無事だったことは嬉しいのですが、今後の災害時のことを考えると複雑です。
学生時代、「ポカホンタス女」と呼ばれるタイプの人に憧れていました
- 外国人(特に欧米出身者や白人)
- 外国語能力
- 海外経験
ウン年前、私は某大学の文系学部に入学した。
その学部は、いわゆる「国際系学部」というやつで、同級生には帰国子女や親が外国人等海外にルーツを持つ者、留学経験者などが多かった。
こうした人たち(なぜか女子が多い学部だった)の一部は、ネットで取り沙汰されているような特徴を持っていた。
語学力や海外経験の他に、外国人のパートナー。時々は日本と外国、日本人男性とパートナーの出身国の男性を比較した話をする。
海外好きを公言し、外国人の集まる場所に繰り出し、ターゲット層に好まれそうな黒髪ストレートの容姿。
学部柄、英語至上主義で、真面目ちゃんは求められず、海外バンザイ、グローバル人材バンザイ、海外経験豊富な学生が評価される環境で、私は彼女たちに憧れた。
英語が流暢で、堂々としていて、友人やパートナーもなんだかグローバルだからだ。
(一方の私といえば、プレゼンでは英語が下手と一蹴され、英語で行われるクラスやそのこでのディスカッションに置いていかれる有様だった。人間関係も特にグローバル感はなかった)
きらきらした彼女たちに憧れと劣等感を抱きながら、何とか恥をかかないように奮闘する学生生活。
変化があったのは入学して1年が経ったころだった。
入学当初は先生の話にもついて行けなかった私だが、さすがに1年もたてば授業には最低限ついていけるようになった。
同時に、海外経験などを既に積んでいる学生たちと純粋に「英語力」で肩を並べようとする限り、私はこの大学では成果を残せないことに気付く余裕もできた。
クラスメイトに劣る英語力を何でカバーするか?を考えていたとき、英語クラスとは全く関係のない所でお世話になっていた教授から
「発言というものは形式と内容だ」
という話を聞いた。
これをきっかけに憧れは消えた。
なぜなら、私が憧れていた彼女たちの、堂々とした話の中には内容が欠けていたからだ。
彼女たちが英語で堂々と話すプレゼンは、立派に見える。しかしよくよく内容を聞いてみると小学生の作文レベルかウィキペディアの要約。
「内容」を気にするようになってから、劣等感もなくなった。
懸命に文法や語彙を調べつつ書いたレポートは、赤字で大量の修正が入れられて戻ってくる。
プレゼンテーションでは、発音の注意をされたりもする。日本語英語からはなかなか抜け出せない。
だけれども、しっかり先行研究を探し、目を通し、自分の意見を述べ、論理的な構成のプレゼン、発表は、少なくとも教員からは評価された。
失礼な言いかたながら、内容を伴わない語学力や態度に大した意味がないことを実感し、劣等感も憧れも消えた。
(実感したことが大事であったと思う。知る、レベルなら入学前に到達していたはずだ)
そして、「ポカホンタス女」なるワードを目にするまで、こうした学生時代の思い出はすっかり忘れていた。
今、私が憧れていた彼女たちが何をしているのかは知らない。
学生時代のままだったら、何の感情も抱かない。
でも、あの頃よりも大人になって、単純な海外/日本の二項対立の思考から卒業し、語学力のみならずそれを用いて何を伝えるかにまで気を回すようになっていたら、きっと私はまた憧れてしまう。
論理的に、濃い内容を、高い語学能力で発信し、自国も他国も尊重できる人がいたら強すぎる。
海外事情にも明るく、何より自国から飛び出す貴重な経験までしているときた。
私にはかなわない。
はじめての更新
はじめまして。
「ざざっとのおべや」とかいう変なタイトルでブログ作りました。
需要がないことは百も承知ですが、はじめての記事なので一応、簡単な紹介を置いておきたいと思います。
ざざっとのおべや
「ざざっと」は私の名前です。
「適当につけただろお前」って感じですが、これでも5分ぐらいは考えてつけました。
由来?はたまたま最近観て面白いなと思ったドラマ「glee」です。「あの帽子になりたい!」的なセリフがあり、「わかる~~!」と思ったことを思い出し、thathatに。ザットハットは言いにくいのでざざっとにしました。
おべやは汚部屋です。
とっちらかったことを書いてしまうと思うからです。好きなことを書いていければと思っています。
よろしくお願いします。